海外の先物取引のはじまり
シカゴCBOTと小麦市場の誕生
先物取引の始まりと広がり|第2回
🌽アメリカでも農産物がカギだった
19世紀、アメリカは「世界の農場」と呼ばれるほど農業が盛んな国でした。
特に中西部は小麦やトウモロコシの一大産地。鉄道網の発達で、農作物が一気に全米へ運ばれるようになります。
その中でも注目されたのが「シカゴ」。
ちょうど東西の中継地点にあり、五大湖ともつながる物流のハブとして急成長していました。

⛅不安定な価格と農家のリスク
でも、農業にはひとつ大きな問題がありました。
それは、収穫してみないと、いくらで売れるかわからないこと。
たとえば、春に頑張って小麦を植えても、秋の収穫時に同じ作物を作る農家が多ければ、
豊作=供給過多=価格暴落なんてことも。
結果、農家は「頑張って作ったのに赤字」という悲しい状況になってしまうこともありました。
🌾 こぼれ話|豊作が困る?農家のジレンマ
「豊作なのに困る」という不思議な話、実は今でも世界中で起きています。
大量に収穫できたせいで市場に品物があふれ、価格が暴落し、収穫や出荷にかかるコストの方が高くなることも。
そんなときは、泣く泣く出荷をあきらめて廃棄されるケースもあるんです。
📜そこで登場「契約で先に決めておこう!」
「だったら、事前に価格を決めておけないか?」
そんなアイデアから生まれたのが、『先物取引』です。
たとえば春に「秋にこの値段で小麦を売りますよ」という契約を結んでおけば、価格が下がっても安心。
農家はリスクを減らせるし、買う側(製粉業者など)も安定供給が見込めます。
こうした『あらかじめ価格と数量を決めておく』取引の考え方は、現代でも使われています。
たとえば商社が石油を買うときの「先渡契約(Forward Contract)」や、農家と企業が栽培量や価格を決める「契約栽培」などもその一例。
市場価格の変動に左右されず、安定した取引を実現するための知恵なんですね。
これがアメリカにおける『先物取引の原点』となりました。
🏢世界初の公式な取引所「CBOT」の誕生
そして1848年、ついに『CBOT(シカゴ商品取引所)』が誕生します。
ここでは、小麦などの農産物の先物契約を公平に売買できるルールが整えられました。
✔ 売る人も買う人も「安心して取引できる」場所
✔ 契約内容や数量、引き渡し方法まで「ルール化」
✔ 第三者の立ち会いによって「ごまかし」が減る
こうして、「口約束」から「公式な市場」へと進化したのです。

1885年建造のCBOT初代ビル
(パブリックドメイン)
💡日本と違う?アメリカの先物文化
日本(江戸時代)は「信用」や「人のつながり」で米の価格を決めていたのに対し、
アメリカでは「契約書」や「取引ルール」で先物を運用していきました。
また、アメリカは「売るものが多い」「土地が広い」「流通が早い」という特徴があり、
金融や工業製品にも先物取引が広がっていきました。
🌍 こぼれ話|CBOTが世界に与えた影響
CBOTのルールや仕組みは、その後ヨーロッパやアジアの取引所にも影響を与えました。
先物取引=アメリカ発と思っている人も多いですが、実はその基礎には堂島米会所の知恵が息づいているとも言われています。
🚀広がる先物の世界
先物取引は「農家を守るための仕組み」として生まれ、
やがて「商品全般の価格調整」や「リスクヘッジ」、さらには「投資」へと広がっていきました。
次回はその流れを追って、「商品先物から金融先物へ」という変化に注目していきます!📈